このコラムでこれまで取り上げてきた路線には、ある共通点があります。計画決定が1946年前後と、とにかく古いということです。なぜ80年近く前の道路計画が、令和の今もまだ「優先整備路線」として扱われているのか。その背景にある歴史を整理しておきます。
1946年、戦災復興と共に決まった道路網
東京都区部の都市計画道路は、1946年(昭和21年)に「戦災復興都市計画街路」として都市計画決定されました。戦争で焼け野原になった東京を、道路を軸にゼロから作り直そうという計画です。その後、社会経済情勢の変化に応じて、1950年、1964年(環状6号線の内側)、1966年(環状6号線の外側)と、部分的な見直しが重ねられてきました。
多摩地域は事情が異なり、1930年に八王子都市計画区域内で計画が決定されたのを皮切りに、区域ごとにバラバラに計画が決められてきました。統一的な見直しが行われたのは1961〜62年になってからです。
美濃部都政(1967〜1979年):道路建設の凍結
この歴史の中で大きな転換点になったのが、美濃部亮吉都政(1967年4月〜1979年4月、3期12年)です。社会党・共産党を支持基盤とする革新知事として当選した美濃部は、老人医療費無料化(通称マル福)や都営交通の老人無料パス(現在のシルバーパスの前身)、歩行者天国の実施など、福祉・公害対策に重点を置いた都政を進めました。
道路政策についても独自の姿勢を貫きました。哲学者フランツ・ファノンの言葉を引用し、「一人でも反対があったら橋を架けない」という、いわゆる「橋の哲学」を掲げ、住民運動の側に立って道路建設を軒並み凍結したのです。東京外環自動車道(外環道)や首都高速中央環状線の建設が停滞したのはこの時期で、東京湾横断道路の実現を目指していた東京湾総合開発協議会からも東京都は脱退し、協議会そのものを事実上活動停止に追い込んでいます。成田新幹線や羽田空港拡張にも反対の立場を取りました。
この12年間、都市計画道路として決定済みだった路線の多くが、事業化されないまま「計画だけ残る」状態に置かれることになりました。これまで扱ってきた路線の多くが1946年決定のまま長期間動かなかった一因は、この時期の政策方針にあります。
なお、美濃部都政は財政面でも東京都を赤字に転落させたとされ、後年評価が分かれています。オイルショックによる税収減が直接の原因ですが、好景気を前提にした歳出拡大が財政基盤を弱くしていたという指摘もあります。福祉と公害対策を重視した姿勢自体への評価と、財政運営や道路凍結の是非への評価は、分けて考える必要があるでしょう。
1981年、事業化計画のはじまり
美濃部都政が終わり、鈴木俊一都政に移った後の1981年(昭和56年)、区部を対象にした「第一次事業化計画」が策定されました。これは全国で初めて、計画期間と整備目標を明確にした画期的な取り組みだったとされています。つまり、「いつまでに、どの路線を優先して作るか」を初めて体系的に決めたのが、この計画です。
その後、区部・多摩地域それぞれで事業化計画が重ねられてきました。
| 事業化計画 | 策定年 | 対象 |
|---|---|---|
| 第一次(区部) | 1981年(昭和56) | 区部 |
| 多摩地域・第一次 | 1989年(平成元) | 多摩地域 |
| 第二次(区部) | 1991年(平成3) | 区部 |
| 多摩地域・第二次 | 1995年(平成7) | 多摩地域 |
| 第三次(区部) | 2003年(平成15) | 区部 |
| 多摩地域・第三次 | 2006年(平成18) | 多摩地域 |
| 第四次事業化計画 | 2016年(平成28) | 区部・多摩統合、320区間・約226km |
| 第五次事業化計画 | 2026年(令和8) | 228区間・約158km(このコラムが扱う優先整備路線) |
第四次までは区部と多摩地域で別々に計画が作られていましたが、2016年の第四次からは東京全体を統合した計画になりました。そして2026年3月に策定された第五次事業化計画が、現在このコラムで取り上げている「優先整備路線」228区間・約158kmです。
80年でどこまで進んだか
東京都の資料によれば、区部の都市計画道路は約半世紀で約900kmが整備され、2023年度末時点で都市計画道路全体の延長約3,200kmのうち約65%にあたる約2,100kmが完成しています。逆に言えば、まだ3割強、約1,100kmが未完成ということです。特別区の都心部では整備が進んでいる一方、外周部や北多摩北部地域は完成率が低いままです。
これまで扱ってきた路線を、この歴史の中に置いてみる
- 補助52号線(1946年決定)は、美濃部都政下では動かず、1996年になってようやく都が整備計画を発表しました。
- 補助133号線も同じく1946年決定で、1970年代から反対運動が続いています。美濃部都政の「橋の哲学」的な住民運動重視の空気が、その後も長く地域に残った側面があるかもしれません。
- 一方で放射35号線や補助26号線のように、大きな対立なく段階的に整備が進んでいる路線もあり、同じ「1946年決定」でも、その後の経緯は路線ごとに大きく異なります。
まとめ
優先整備路線の多くが80年近く前の計画をベースにしているのは、単なる行政の怠慢ではなく、戦後復興計画→美濃部都政による凍結→事業化計画による段階的再始動という、具体的な歴史的経緯の結果です。この歴史を踏まえたうえで、個々の路線が「なぜ今も終わっていないのか」を見ていくと、単純な「行政 対 住民」の図式では説明できない事情が見えてきます。このコラムでは、今後も一路線ずつ、その事情を検証していきます。
参考情報源:東京都都市整備局・建設局公表資料「東京における都市計画道路の整備方針」、美濃部亮吉に関するWikipedia・国立国会図書館憲政資料室・コトバンク等の公開情報を基に構成しています。